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2022年8月29日
私が系統運動に携わったのは父の死去を機に東京から島根の小さな漁村に帰県した1970(昭和45)年5月。農業には当時、食管制度があり、コメの価格を維持していた。しかし漁業にはこうした制度がなく、漁業者は、魚価の決定には関われなかった。[....]