[16]気まぐれな海の恵み

2013年9月4日

 毎日エビ網漁に出て、区分された漁場を何周もしていると、どこも同じように見えた漁場の違いが次第に見えてくる。エビ網にはいろいろな魚も掛かり、大きなヒラメが獲れた漁場にくると、もう1度と期待してしまうが、そううまくいかない。主対象のイセエビですら、シケ気味の時が多く獲れることから、きょうは絶対いけると思っても全然ダメで、がっくりする。

 毎回同じ操業をしていても、獲れる魚の種類と量は1日として同じことはない。自然相手とはいえ「海とは気まぐれなもの」と感じ入るが、同時に、エビの獲れない時には他の魚が獲れるなど、漁期を通じてみれば何かしら与えてくれる。海とは有難いものだと思う。「宝の海」とか「豊穣の海」とかいろいろな表現があるが、「海」を「畑」や「工場」に置き換えてもしっくりこないのは、人間の手ではどうにもならない存在への畏敬の念ゆえかも知れない。

 現役のころ、漁業者から、「漁業者が多く獲れば資源がよい、獲らないと悪いといっているだけ」「調査船でちょっと調べ、さも全部が分かったようなことをいう」とよくいわれた。今から思えば、現場を知らずして、資源は把握し管理できるとする傲慢さへの反発であったのかも知れない。ただし、これは漁業者が資源管理を無意味と考えているからではない。甫母でも小型エビの再放流などは、必ず第3者の確認を求める中で行うなど、驚くほど徹底している。またある時、海草がびっしり生えたハンドボール大の得体の知れないものが揚がってきて、何かと思ったら、何と巨大なサザエであった。磯根資源保護のため4年前から磯売り(外部の業者に潜水で採らせること)をやめた効果で、エビ網に掛かるサザエが確実に増えている。

 資源評価は全体値からするのに対し、漁業者は自分の漁場からという限界はある。しかし、資源管理に携わる者には謙虚さが必要だ。漁業者を前に「この数式が目に入らぬか」とやれば、自己愛性人格障害を患っているのではと受け止められ、逆効果となる。