[11]「餅まき」に関する勝手な一考察(前編)

2013年6月20日

 甫母に来て、小学生の頃以来、約半世紀ぶりに餅まきを体験した。しかも3回。私が不在中の正月も入れると計6回もあった。私の育った大分では、餅まきといえば棟上げの時のみで、経験数は3回あったかどうか。なのに150人しかいないこの漁村で、一体この多さは何なんだ。何か訳があるはず。

 そもそも餅まきとは、上棟式などで災いを払うための神事で、神社での祭事においても行われるようになったとある。しかし、甫母では新しく建てる家はなく、定番の神社の餅まきは2回だけ。なぜ多いか。それは個人の厄払いとお祝いの行事としても行われるためである。

 びっくりするのはその回数と量。生涯での回数は、厄年2回(男25、42歳、女18、33歳)と還暦、米寿の計4回。1回の量は3俵、ただし若い厄年は1俵でよい。88歳までだとその合計は10俵、600?にもなる。さらにお菓子、雑貨、50円玉も同時にまく。私は1、2回目の餅まきではよそ者らしく遠慮し、数個しか拾わなかったが、3回目は途中からついわれを忘れてしまい、餅19個とお菓子などを大きなビニール袋いっぱい拾った。多い人は100個近くも拾う。さらに、米寿の方からは墨で手形を押し名前を書いた白い紙と3?入りのおコメが全戸(約80軒)に配られた。

 拾う方は大いに結構であるが、まく方には相当な出費でないかと心配になり聞くと、経費負担は若い厄年は親、米寿は子と孫、ほかは本人とのこと。その歳が近づくと、少しずつお金を貯め、準備するのだそうである。

 甫母には、餅をまきたくてしょうがないほどの金持ちはいない。なのにそこまでやるのは、やはり漁村社会の助け合い精神が根底にあるのではないかと聞くと、皆さん「そんなこと考えたこともない」と即座に否定。そのうえ、「何かというとすぐに理屈をつけたがるのが役人の悪い癖」とまで言われてしまった。
 しかし、都会生活の長かった私からみれば、これは単なる厄払いやお祝いのお裾分けのみでは説明が付かない。悪い癖と言われようが、私の勝手な考察が後編に続く。