温厚な海賊

2016年7月7日

 答志の人を「もと海賊」か「もと水軍」のいずれで呼ぶのが正しいか。地元図書館の郷土資料コーナーにあった本に「海賊(水軍)」とあり、どちらも正しいようである。現在の辞書で海賊を「海上において船の財貨を奪う賊」と盗賊扱いしているのは「大きな誤解」であり、歴史的には「賊」には「豪傑」の意味もあったとのこと。答志の人は「私、海賊の末裔ですが、それが何か?」と自慢してもよいのである。

 私の大きな関心事は、日本には官制水軍が「白村江の戦」で唐・新羅連合軍に大敗を喫した倭の時代以降、明治になるまでの1000年間以上存在せず「この間、豪族や諸国の有力者が擁する私設水軍すなわち海賊衆は健在」であったこと。私の解釈は、海の秩序維持とは中央政権が陸を支配するように簡単にいかず、結局地域の自治に任せるしかなかったためであり、明治政府の「海面官有制宣言」の失敗からもそれは分かるというもの。漁業者による自主管理を基本とする漁業法を、規制改革会議の意向を受け、外国のように上からの押しつけ型に改正すべしとの主張が一部にあるが、全く歴史に学んでいない愚かなことである。

 歴史上有名な水軍といえば、答志島に墓がある九鬼嘉隆が志摩半島一帯の海賊を統一しつくった「九鬼水軍」と、瀬戸内海の「村上水軍」であろう。

 しかし、九鬼水軍は歴史も実績もあったが「なかなか世に出なかった」ようで、その理由を気質ゆえとしている。貧しい土地柄ながら、温暖な気候と海と山の幸に恵まれているゆえに、あくせく出世を考えるより平穏無事な一生を送りたいという人柄をつくり出したとのこと。本ではこれを「温厚な海賊」と称しているが「気が優しい暴れ者」のようで意味不明。

 そういえば私にも思い当たることがある。現役の頃、三重県の漁協系統団体が抱える問題解決の指導にあたっていたが、どうして三重県の漁業者は悪いやつにそんなに優しいのかと歯がゆくなったことがあった。それも今思えば「温厚な海賊」ゆえかも。