海女さんの死(後編)

2016年8月8日

 高齢でもできる漁業は、何といっても一本釣り。伊勢湾の入り口に位置し、海上保安庁の船も容易に近づけない複雑な岩礁地帯が広がっている答志の海は、マダイなど高級魚の宝庫。

 高齢漁業者の出漁に家族が反対する理由は、本人のためだけでなく、万一事故があった時に、地域の全漁船が捜索にあたるため大変な迷惑をかけるから。そうはいっても、おじいさんは漁期になると我慢ができない。家族は首輪でつないでおくわけにもいかないので、ある手を打つ。例の「エビでタイを釣る」の餌に使うエビが手に入らないよう底びき業者に「うちのじいさんには絶対エビを売らないように」とお触れを回すのである。

 それでもおじいさん諦めない。一隻一隻回っては「1?だけでも」と拝み倒す。底びき業者も根負けし「ちょっとだけよ」と譲る。しかし、万一の場合「餌を売ったのは誰だ」と責任を問われるので、きょう一日無事にと祈るのみ。その3日後のこと。船はあるが人影が見えないと近づくと、甲板に倒れているおじいさんを発見。幸い一命は取り留め「自分の日でなくてよかった」と胸をなで下ろしたとか。

 今度の海女さんの死に接し、亡くなるその日の朝まで魚の選別の手伝いをした熊野のおばあさんのことを思い出した。これには何か共通するものがあるのではないかと考えていたら、「働く」というキーワードにたどり着いた。「働」は和製漢字で、見ての通り「イ(ひと)」が「動(うごく)」である。つまり人が生きている証しは「働」にあり、それが「生きる喜び」に通じるのではないかというもの。

 海女さんの死は、長い療養生活の末迎える死と対極にあり、人生を終える直前まで「人として動ける喜び」の中にあったと思う。役人では退職後「もう一度予算要求資料を作りたい」と家族の制止を振り切り水産庁の玄関先で倒れるなど絶対にないので、体を動かす仕事を天職とする漁業者がうらやましい限りである。(佐藤力生)。