死ぬまで働く

2014年9月18日

 ブラック企業のことではない。漁村の高齢漁業者の姿を見ての感想である。80歳近いご夫婦が、真夜中に凍えた手をたき火で温めながら、エビ網にかかったゴミを外している姿を見て、もう十分働いただろうから、ゆっくり休めばよいのにと何度も思った。しかし、毎日近くでその姿を見ていて「働くことが生きている喜び」のような気がしてきた。

 いちばん感動したのは、熊野漁協の支所に早朝魚を集荷に行った時に見た光景である。向こうの方から一人のおばあさんが手押し車につかまり、よろよろしながら近づいてきて定置の魚の選別台の近くで座り込んだ。魚でも分けてほしいのかと見ていたら、その選別台にいた船頭が、近づいていき、何かひと言二言話した。そうすると、そのおばあさんは腰を上げ、ゆっくりゆっくり帰っていった。

 一体何をしに来たのかと漁協職員に聞くと、その方は船頭の母親で、選別を手伝いに来たのだった。大変失礼な言い方であるが、あす倒れられてもおかしくはないほどヨボヨボで、独り立ちも無理そうなのにと聞くと、マメアジなどの小さな魚の選別は、座ったままでもできる、その日はそのような魚がなかったからそのまま帰ったが、毎朝必ず来ているとのこと。それを聞き、今見送ったおばあさんの後ろ姿から、急に後光が差してきたような感覚を覚えた。

 先日、熊野漁協の理事会で定置の船頭さんと隣り合わせになったので「おばあさん、お元気ですか」と尋ねると、「この3月に亡くなりました」と。私が見たのは、余命半年の力を振り絞って働こうとする姿であった。「最後はさすがに寝込まれたでしょうね」と聞くと、「いや、亡くなるその日の朝も選別の手伝いをし、そのあと家に帰って急に逝った」と。

 その見事な人生の仕上げに、人間の生き方のお手本を見せつけられたような衝撃を受けた。定年後の仕事がない都会では、「寝たきり老人」などが問題となっているだけに、その対象にある「死ぬまで働ける漁業」とは、「幸せに死ねる漁業」と言い換えてもよいのではないかと思った。