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村十分

2017年6月13日

 「楢山節考」という姨捨山をテーマにした映画がある。私はずいぶん昔にそれを見たが、なぜかその映画のあるシーンを最近思い起こすことが多い。それは息子(緒形拳)が老いた母親(坂本スミ子)を背負って山に捨てに行く肝心のシーンではなく、畑の農作物の盗みを繰り返す一家を、村人が襲って全員生き埋めにして殺してしまうシーン。

 当時は「何でそこまでやるのか」としか思わなかったが、漁村に住み、特に答志島に来てからなぜ村人がそのような行動に出たのかがよく理解できるようになった。それは共同体という自主管理社会を維持するためには「掟」を守らせること、それこそが絶対条件であるからと思う。

 「掟」と「法」は違う。「法」を破るものには警察権力がそれを糺してくれる。また、会社組織であれば雇用契約に基づき社長のひと言「君クビね」で片付く。しかし、「掟」の世界には警察も社長もいない。共同体では皆横並び。よって掟破りを自ら排除しないとたちまち無法地帯となる。

 では誰がそれを守らせるか、実はそこがいちばん難しいところである。漁協も共同体である。私は、その掟を守らせる現場責任者である支所運営委員長を横でみていて、本当に大変だと思うことが多い。隙あらば掟を破り抜け駆けする組合員に対し、厳しい態度で臨めば「何を偉そうに」と反発される。それもそのはず、組合員はみんな子供の頃からの顔なじみで、親戚筋のこともあるから。

 みんなで決めたルールを守れと言っているだけなのに、本当に割に合わない役職である。でもそれができるかどうかで、その支所の業績が左右されていることだけは間違いない。「村八分」も以前はいじめのようにとらえていたが、共同体にとって欠かせないものと思うようになった。むしろ問題が起きると役所と警察に解決を頼るしかない都会こそが「村十分」状態ではないかと思う。