[20]光と闇

2014年8月8日

 1度は体験してみたかった漁船の上からの花火見物がついに「鳥羽みなとまつり」で実現した。
 感心したのは海の上での場所取り。陸上でのベストポイントでは、何日も前から場所取りが始まる。しかし、海の上では毎年違う。浜口富太さんによると、その日の風向と潮流が場所を決める。まず風上に位置する。それは、花火が煙でかすまないためと、燃えカスが降りかからないため。次に舷側が打ち上げポイントに向くように、潮流を考えアンカーを打つ。おかげでさえぎるものなしの絶好の見物となった。

 ところで、あまりにも多くの花火が連続して打ち上げられる花火大会はどうも好きになれない。余韻が味わえず、隣の人と話もできない。
 私の故郷にも花火大会があった。小さな町だったので、お金もなく1分間に1発程度しか上がらなかった。ドーンと夜空に広がった花火がだんだんと消えていく。そのあとしばらく続く闇と静寂。今の花火は「どうだこうだ」としゃべっていると、「ドッ」と低い発射音が聞こえ、あわてて夜空を見上げる。ドカーンと次の大輪が夜空に咲く。

 あのゆったりとした「光と闇」「動と静」の間合いこそが「日本の夏」の風情ではなかろうか。
 都会生活では、真っ暗闇の空間など体験することはないが、全国有数の熊野の花火大会からの帰りにそれを味わった。

 大混雑の熊野駅で3時間も列車を待ち、最寄りの駅に着いたのは真夜中。そこから徒歩30分の山道を、1人で帰った時は怖かった。試しに懐中電灯を消すと、本当に真っ暗闇で足元すら見えない。ようやく甫母の灯が見えてきた時には、光とは本当にありがたいものだと感じた。

 人間は本来、光と闇の中で生きてきた。毎日海に出て、潮の「満ち引き」や、月の「満ち欠け」に接すると、水産資源も含め、自然にあるものは「陰陽」が宿命の気がする。その中で生き残るためには、闇があるから光があると、闇にじっと耐えることではないか。光のみを追い求める持続的成長戦略とは、打ち上げすぎて、煙でよく見えない無駄な花火大会のように感じる。